Welcome Guest 
災害関連情報
ニュース
ご案内
教団各種資料
教団関係者用メニュー
TOP
TOP : イースターメッセージ 創造の神秘からゲツセマネへ
投稿者 : doumei 投稿日時: 2018-04-12 16:11:44 (96 ヒット)

イースターメッセージ 

創造の神秘からゲツセマネへ

顧問 下川友也(日高キリスト教会牧師)

 「夕あり、朝ありき」(創世記1章)を、このところ黙想している。夜の休息があって、朝の労働が始まる。よく休む者が、よく働ける。休んで力をたくわえなくては、どうして良い働きができようか。これは一週のサイクルにも当てはまる。安息の主にゆっくり、たっぷり力を付与されてクリスチャンは週日の労働に勇ましく立ち向かう。創造の摂理、知恵は素晴らしい。まず夕があり、しかるのち朝がある。神のくださる安息が、私たちの生きる力である。もっと強調して言うなら、神のめぐみなしに、私たちは何もできないのである。実のところ、夕も朝も、ともに神の御手のうちにある。一日の労働の時も、それはもうすべて神のめぐみである。だが、わかりやすく言うと、夕(夜)は独特に私たちは無力である。受身である。眠るとき、私たちは意識しようが、しまいが、まったく全能者の主権に委ねている。それしかない。それが良いのだ。そのとき、神は働く。

 この思いを土台としながら受難週に、「ゲツセマネ」を学んだ。幾度もこの聖書箇所は、読み、瞑想し、思索してきた。そして今年も。つくづく主イエスの祈りには立ちつくす思いである。クリスチャンならよく承知のように、ゲツセマネで主イエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをより身近に引き寄せ、少し離れてではあるがともに祈るよう求めた。でも彼らは失敗する。それにしても主イエスの祈りは激しい。まず「悲しみもだえ始められた」(マタイ26章37節)とあり、ついで「わたしは苦しみのあまり死ぬほどです」と。さらには「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。およそ一時間ほどの祈りのエッセンスがこれであったとは、驚くほかない。素人っぽく疑問を言えば、「主イエスはこれまで弟子たちに、受難を予告しておられたではないか。その上、人情がらみで否定しようとしたペテロを「サタン」呼ばわりするほどに叱責したではないか。それなのに今、このありさまはなんだろう。それもこの夜の祈りは、一時間ほどの祈りを二度、三度とくり返されたのである、熱烈に。

 実は、このゲツセマネの夜の祈りこそ、十字架で苦しむ主イエスの、(それを肉体に受ける受難というなら)霊的苦しみ、格闘であった。まさにその通り。私たちは、十字架の苦しみを肉体的に想像するだけでも、引き裂かれる痛みを覚える。であるのに、そのことを祈りにおいて、十字架を先取りするとは!これはもう想像を絶することである。そしてこの祈りの激しさに、ペテロ、ヤコブ、ヨハネたちは従いて行けなかったのである。

 私は今年の受難週にゲツセマネを学び、つくづく人間の熱心、努力は、主イエスのレベルに及ばないものだと実感、痛感させられた。しかし、それでも主イエスは、(この大事な場面に)眠りこける三人に祈りを喚起する。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」その意味するところは何か。

 ゲツセマネほど、私たちが無力をさらけ出す場面はないだろう。しかし、それは創造の初めから明らかだったのである。神の恩恵なしに私たちは、まったく無力、無能力なのだ。いち早く気がついて、天からの恵みを求める者になろう。ゲツセマネではなくとも、信仰者は、人生のさまざまな挫折、絶望を経験して自分の無力を知るようになる。それは、辛いけれども、さいわいなことでもある。

 創造の神秘を日々、週ごとに体験しつつゲツセマネの主に近づきたい。ゲツセマネを真実に経験してこそ、復活の喜びが爆発する。


印刷用ページ 

ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

検索
日本同盟基督教団