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投稿者 : doumei 投稿日時: 2019-02-27 15:47:03 (107 ヒット)


投稿者 : doumei 投稿日時: 2019-02-27 15:45:28 (99 ヒット)

「東日本大震災復興支援活動記録集」紹介

「語り得ぬことを語る」

朝岡 勝(元教団震災復興支援本部事務局長)(徳丸町キリスト教会牧師)

 3月11日で東日本大震災から8年を迎えようとするこの時に、『東日本大震災復興支援活動記録集』が刊行されました。2015年3月で復興支援本部の働きが閉じられた時に残された課題が、記録集の編纂でした。その課題を果たすべく編集の実務作業を担ってくださった宗田信一総主事、河野優法人事務主事のお働きに感謝いたします。

 3・11以前にもそれ以後にも大きな災害がある中で、この出来事を記録するのはなぜか。この点については廣瀬薫理事長が「まえがき『体験、記録、そして追体験へ』」に意義深い文章を書いてくださっています。私の手許にはいくつかの教団教派、団体の記録や資料集がありますが、今回の記録集も含め、これらを読んでの感想は「語り得ぬことを語る」ということでした。この出来事について語るにふさわしいのは誰なのか、これもまた大きな問いです。

 支援活動に従事する中で幾度も手にした本に宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』(みすず書房、2007年)があります。そこで著者は「災害の一番の当事者は語ることができない」と言います。一番の当事者はいのちが奪い取られてしまっているからです。誰かがそれに代わって書き残さなければならない。そういう作業があるのだと教えられたのでした。8年という月日が経つ一方で、いまだ震災の影響が続く中、改めて震災を考えるきっかけとなる一冊です。まずは諸教会に一冊ずつ届けられると聞いています。教会の書架に眠らせず、ぜひ皆さんでお読みいただきたいと思います。


投稿者 : doumei 投稿日時: 2019-02-27 15:08:00 (108 ヒット)

祈りの家と呼ばれる教団総会に

常任書記 畑中 洋人(石神井福音教会牧師)

彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」(ルカ19章46節)

 今年で教団総会は、70回目を迎えます。第1回の教団総会(当時年会と呼ばれていた)は、戦後まもなく1948年10月に開催されました。しかし実は遡ること、教団の前身の日本同盟基督協会の最初の年会は1922年10月に開催されていました。100年近く重ねられてきた総会によって、今日の日本同盟基督教団の優れた宣教協力の機構が築かれたことを思うと、まずは感謝をしなければならないと思わされます。そして今年の教団総会も未来につながる大事な一歩であることを自覚し、その責務をしっかりと果たしていきたいと願わされます。

 そのような中、なぜこのみことばなのか。教団総会が荒れている?と心配される方もおられるかもしれませんが、そうではありませんのでご安心ください。教団総会は2014年より代議制に移行し、議員数は約100名と規模は小さくなりましたが、しっかりと審議を行っています。しかしだからこそ、このみことばを覚えたいと思っています。教団総会は、会議形式で実施されます。総会議事運営規程に沿って、議案説明、質疑、討論、表決の手順を経て教団としての意思決定がなされます。過去には教団総会の議事進行が混乱することもあったようですが、今は秩序をもって運営されるようになりました。

 イエスの時代、主の宮は祭司たちによって管理されていたにもかかわらず、「強盗の巣」になっていました。原因は、主の宮で金儲けをしている人たちがいたことでしたが、本当の原因は、それを許していた指導者たちの存在です。いつの間にか主の家が彼らにとって「私たちの家」となっていました。そこで主イエスは、ここはあなたがたの家ではなく「わたしの家」だと言われ、さらにそこは「祈りの家」でなければならないと憤られました。創世記4章では、カインとその子孫が、実に立派な町を建て上げていました。家畜を飼う者、竪琴と笛を奏でる者、あらゆる道具を造る者と、分業をしながら豊かな生活を手に入れるためのシステムを築き上げていました。しかしその町は、自分のために人を殺すことをもいとわない堕落した町になっていたのでした。彼らに何が欠けていたのでしょう。それは彼らが主を呼び求めること、つまり祈ることをしていなかったことです。

 私たちは長年の積み重ねにより、ある程度会議をうまく運営することができるようになりました。しかし気をつけなければ、どこか私たちの手で、私たちの日本同盟基督教団を建て上げているという、かつて主の宮が強盗の巣となってしまったのと同じ過ちに陥ってしまう危険性があります。私たちがしていることは、私たちの手で私たちの日本同盟基督教団を建て上げることではありません。私たちは、神の国の建設というすばらしいみわざに仕えているのです。この重要な働きを担っていくためにも、教団総会の会場は、会議場である前に「祈りの家」でなければならないと思わされています。事実、教団総会のすべての審議は、祈りで始まり、祈りで終わります。以前はこの祈りと審議に、教団のすべての教会が現場で加わっていましたが、今は選ばれた議員だけです。そのため全教会の教職・信徒が直接審議に加わることはできなくなりました。しかし祈りにおいては、そうではありません。教団総会は、インターネットを通じてライブで視聴することもできます。牧師に尋ねていただければ、その視聴方法を知ることができます。教団総会が「祈りの家」となるように、そして日本同盟基督教団が今年も主の御国建設に貢献できるように、3月21〜22日ぜひ祈りの議員として教団総会にご参加ください。



投稿者 : doumei 投稿日時: 2019-02-04 17:35:24 (383 ヒット)


投稿者 : doumei 投稿日時: 2019-02-04 17:21:49 (161 ヒット)

教団ニュース

《会 議》

◇理事会

 2月4日㈪ 教団事務所

 2月25日㈪ 教団事務所

 3月20日㈬ 教団事務所

◇第70 回教団総会 3月21 〜22日(木〜金)

 会場 国際ファッションセンター KFC Hall Annex(東京・両国)

《研 修》

◇新任教師派遣前研修 3月20日㈬

 会場 小竹町聖書教会


投稿者 : doumei 投稿日時: 2019-02-04 17:04:57 (102 ヒット)

十字架のことば

副理事長 水草修治(苫小牧福音教会牧師)

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」汽灰螢鵐硲云18節

 友人の牧師は、新幹線でたまたま同席した人にこう言われたそうです。「キリストの愛の教えはいいけれど、十字架は血生臭くていけないね。あれがなければキリスト教はもっと普及するでしょうに。」パスカルは「キリスト教弁証論」を「第一部、神なき人生の悲惨。第二部、神とともなる人生の至福」という構成で書こうと計画していました。確かに、主イエスがくださった救いは「神とともなる人生の至福」であり、それは誰もが望むことでしょう。しかし、神が私たちを「悲惨」から「至福」へ移すためには、私たちの罪が罰せられる必要があり、そのために主の十字架の受難が必須なのです。

 「十字架のことば」、すなわち、キリストが私たちの罪の罰を身代わりに担って十字架で死んでくださったという教えは、代償的贖罪の教理と呼ばれます。しかし、初代教会の時代にはすでに代償的贖罪を愚かだと否定する人々がいました。宗教改革時代のソッツィーニも、キリストの代償的贖罪の教えは非理性的、支離滅裂、不道徳そして不可能であると非難しましたし、19世紀以来の自由主義神学者たちも軌を一にしています。たとえば森一弘司祭は高橋哲哉氏との対談で、「キリストの十字架を『犠牲』としてとらえてしまうと、神の姿が歪んできてしまう。(中略)福音書の中にキリストの十字架を『犠牲』とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません。」(『殉教と殉国と信仰と』)と発言しています。本当でしょうか。

 改めて聖書を開いてみましょう。主イエスは「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10章45節)また、「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26章28節)と教えました。バプテスマのヨハネは、イエスを指して「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1章29節)と叫びました。パウロもペテロもヨハネもキリストの代償的贖罪を教えています。パウロは「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4章25節)と語り、ペテロは「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(汽撻謄蹌云18、19節)と教え、ヨハネは「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちのつみだけでなく、世界全体の罪のための宥めのささげ物です。」(汽茱魯唯仮錬伽瓠砲泙拭◆峪笋燭舛神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(汽茱魯唯款10節)と弁じます。また、ヘブル書は全巻をあげて、主イエスがご自分を私たちの罪の犠牲として捧げた大祭司であると教えています。そして、パウロは御子の十字架の犠牲を要求したのは、神ご自身であると聖書は教えています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(競灰螢鵐硲犠21節)

 福音書をはじめ聖書には「キリストの十字架を『犠牲』とする、あるいは罪のあがないとするような言葉」は満ちています。「十字架のことば」は、二千年間生きて働き続けて、今も人類を救われる者と滅びる者と分けているのです。私たちは、人を「神なき人生の悲惨」から「神とともなる至福」に移すために、この「十字架のことば」を宣べ伝え続けるのです。


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